「たかが世界の終わり」を観て

原作はフランスの劇作家ジャンリュックラガルスの戯曲「まさに世界の終わり」。

余命幾ばくもないことを宣告された主人公は12年間疎遠にしていた家族のもとへ帰郷するが、家族内のいざこざの中結局告白するタイミングを失い、自らの死を家族に宣言することができずに終わる。

このくらいのあらすじはあらかじめ知った上で、なおかつ原作が戯曲だということも知った上での鑑賞だった。

率直に言ってこの映画は失敗していると思う。
なにに失敗しているかって多分「視点の置き方」と「空気感作り」かと。

まず、「視点の置き方」っていうことに関して。

映画の冒頭に主人公の独白(状況説明はこの独白ですべて済ませている)があることからも明らかなように、この映画は「主人公目線」で描かれている。
そんでもって全編に渡って繰り広げられる無理解と無神経の権化とも言うべき家族たちの言い争い、罵詈雑言、言い掛かり、野次。こんな家族だったら誰だって12年間も家離れるわってかんじなんですがまあそれはさておき。自らの死の宣告のため12年ぶりに故郷に帰ってきた主人公。別れの言葉、感謝の言葉、仮にも家族なんだから伝えてから逝きたい。思い出のある家や家具たち、すでに荒廃しているだろうけど生まれ育った生家も最後に一目見ておきたい。
人生最後の自分の足跡を辿る旅。そのはず、が。

この肩透かしを食らったようなむず痒さと馬鹿な家族と状況に対する不快感がクライマックスに向けてどんどん蓄積されてく。ああもうこの兄貴一回ぶんなぐってやりてえなって。

ラストまでずっとこの調子で、状況が日の目を見ることなく映画は終わるので、観客の後味としては「なんなんだあの家族は!」っていう不快感ばかりが残るわけ。

これ、もし視点を変えて第三者目線で余分な情感を取り払って描いていたとしたらそんなことにはならなかたんじゃないかと思う。主人公の感情よりも「不理解や誤解の生む不幸」っていうバベルの塔的テーマに焦点が行くんじゃないか。結果こんな不快感ばかりが強調されるような感じにはならなかったんじゃないかと。


次、「空気感作り」に関して。

監督の思惑だろうけど、音楽・照明・カメラワーク、どれもが主人公の感情の動きに焦点を当てて作られているので、必然的に映画は全体通してノスタルジックかつシリアスな空気感に仕上がっている。
しかしそれが脚本とのミスマッチに繋がっていたと僕は感じる。
僕自身は原作を読んだことはないし、戯曲と言ったらシェイクスピアの有名どころを数作さっと読んだことがあるくらいなのだけど、この映画も脚本は多分だいたい原作通りで、そのために戯曲の持つ雰囲気(スピード感のあるセリフのやりとり、滑稽さ)がスクリーンの中に反映されていたと思う。

主人公目線での鑑賞を強いられた観客は、それと裏腹に戯曲的無機質さを伴った家族たちのセリフに対して、嘆息すべきやら笑えばいいやら。
その違和感が先の不快感を助長する働きをして観客としてはいよいよむず痒い状況に追い込まれる。だれか孫の手貸して!

僕は思った。これコメディタッチで描いていたら良かったんじゃないかって。
それなら多分セリフと空気感がもっとしっくりくるものになっていたんじゃないかと。


さてここまで映画を鑑賞しての感想でした。
映画のレビューて難しいんだよね。いつも観た映画に対しては何かしら書くんだけど。難しい。


内容とは全然関係なくなるんだけど、実はもうひとつ感想があって。

はっきりと提示されるわけじゃないんだけど主人公ルイはゲイだと思われるのね。でどうやらエイズにかかってしまったという設定らしいと。恋人と生活していたが死期が近いので家族に挨拶しに帰郷したわけだ。

もちろんそんなこととは知らずに観に行った映画です。

こういうことって初めてじゃないから、自分、ある方向性でのゲイダーはすごいのかも、なんて。。。

 

老後の話

老人がひとりぽつんと座る姿は、見るだにうら寂しく心もとない。

 

私は生涯結婚することも家族を持つこともない。
それはもう自分で決めてしまった。

 

私には家族は持てない。

これはべつに私がゲイで子供が持てないからとかいう以前の話で、

そもそも私は子供が大嫌いだし、

他人の人生に責任を持ちたくないという理由が大きい。

 

とはいえ、生涯独り身ということは老いぼれても

死にかけても独りということ。

客観的に老いぼれた我が身をイメージしてみると、

どうにも一人というのはよろしくない気がする。

 

還暦過ぎても70、80になってもバリバリ仕事しているというのならいいのかもしれない。
でも前時代の遺物のような老害がいつまでも現役ぶってるって社会にとって良いことなのかは甚だ疑問だし、そもそも死ぬまでずっと働き続けるなんてことはできない。

 

老人ホームだって今や予約何年待ちとかいう話を聞くし。

老人ホームなんかに入れるのは一部の金持ちぐらいじゃないか。

 

そう、お金の問題もある。老いぼれた先、仕事もできなくなった後、

どうやって生活をしていくのか。

 

私たちの世代では当然ながら年金なんかあてにできない。

退職までにそれなりの額を貯蓄しておく必要があるんだ。

果たしてそんなことが可能なのかどうか。

(そこのところを同世代の人たちがどう考えているのかは、じっくり話を聞いてみたいところ。)

 

私自身は一生働き続けることができる、もしくは

働かなくても収入が入ってくる、そういう方法を模索してはいる。


それでも正直老後のことはあまり考えたくないんだ。

老後に夢も希望も持てないんだ。


だから私はこう言っている。
叶うなら38でぽっくり逝きたいと。

 

まだ若い身体を保ち、なおかつある程度の人生経験を積み人間的な深みを増したぐらいのちょうどいいおっさんのころ、周囲の期待と尊敬を背負いながら、ぽっくり逝きたい。

 

長生きしても老いと孤独と貧窮に打ちひしがれるくらいなら、

そのほうがよっぽど夢があるとは思われないだろうか。

眠れぬ夜に

言葉が頭の中に生まれては消えて、また生まれては消えていく。

思考にならぬまま言葉は泡沫のように浮かび弾け、ただ脳の血流だけを早める。

どうしても眠れそうにないから、無駄な努力はやめてこうして真夜中にキーボードを叩く。

今気がついたが、電気をつけずにキーボードを打つのはタッチタイピングの練習にうってつけだ。


ブログへの初投稿になる。
いきなり人様に見せられるような大層な文章は書けないし、第一公開するとなった途端に筆が進まなくなるのは目に見えている。
だから、よく言う「備忘録」ってやつとして、徒然に綴っていく。

気が向いたら公開もしよう。


考えていたのは、今日のKとの会話のこと、明後日のデートのこと。

Kだけじゃなくて、あの街に根付いた人々の性質には、看過しがたい異質さがあるように感じる。こう言う風に括るのはそれこそ偏見だけど、Kをはじめ私の過去世話になってきた人々、それから少しの間逢瀬を交わしたひとりの男、彼らとコミュニケーションを取るたびに必ずと言っていいほど感じてきたのは、”共感能力” の欠如。

彼らは私の話を聞いているそぶりを見せながら、息継ぎの間を狙うように、関係があるようで関係のない”自分の話”をし始める。彼らにとってそれこそが共感なのかもしれない。けれど私の感覚ではそれは共感とは呼びがたい、むしろ自己アピールでしかない。

確かに私自身話が下手で、一生懸命言葉をひねり出しては語彙の貧弱さと頭の回転の鈍さに我ながら辟易するのが常だ。
それにこんなことを言えた立場じゃないくらい、そもそも私自身が相当共感能力に乏しい 人間であることは重々自覚しているつもりだ。

それでも、だ。

私は今日と言う日の目的を「Kを会話で楽しませもてなす」こととして、私なりに懸命に彼の話を聞こうとしていた。想定していたほど上手く聞き役に徹することはできなかったけれども、それでもその目的設定を忘れていたわけじゃない。彼の出した話題から話をそらさないように、共通したテーマを含んだ私の経験談を、拙いなりにも懸命に話した。

それを、つまらなそうに聞く、のみならず。
私の話が終わったと見るや否やあくびを一発かましてきたものだ。
そしてとどめはお決まり、(なんと言っていたか記憶にも留まらない)彼なりの”文学的”名台詞で話をまとめ上げるのだ。


彼は文学少年だったようだ。現在もそれなりに読書はしているようだし、音楽の好みも文学的歌詞であるかどうかが大きな要素であることは間違いない。彼は中森明菜をはじめ鬼束ちひろ中島みゆき、その他昭和歌謡曲に傾倒している。

だからだろう。彼は会話の中で幾度となく文学的表現と取れる”それっぽい”言葉を挟んでくる。しかも、それ単体で。
確かにそれらの言葉自体はは”それっぽ”くて使い方によっては非常に魅力的に思える言葉たちであると思う。
ただ、彼のようなタイミングでそれらを使われても、私には違和感しか感じないのだ。

おそらく辞書を引いてみれば彼の用法の間違いは明確に指摘することができるはずだと思う。しかしながら私には咄嗟に間違いを訂正できるような知識もなければ回転の速い頭もないので、基本的にそれらの言葉は無音声として処理するように努めている。
それでもその、社交パーティーの輪の中に喪服の男が混じり込んだような、一度気になりはじめたら意識の外に追い出しがたい、すさまじい違和感は払拭しきれない。

こんなことを言っているけど別に私自身が文学を毛嫌いしているなんてことは全くない。むしろそういう文化的な環境に身を置いて育ってきた青年には好感という言葉ではちょっと物足りないくらいの感情を抱いている。憧れと言ってもいいかもしれない。

全然自慢ではないが、私の通っていた高校は県内では有数の進学校で、私の同窓生たちはみな揃って優秀そのものだった。そして彼らの多くが文学に幼少の頃から親しんでいたということを3年間関わる中で知った。折に触れて彼らが漱石や芥川をユーモアに使うのが、端で聞いている私までエリート気分にさせてくれるようで気持ちが良かった。彼らのことを知っていて、なおかつ自分自身はそのような立派な文化的背景を持っていないからこそ、Kのような文学少年には期待こそすれ嫌悪感など持ちようがないのだ。


Kだけではない。先にあげた人々性質の差こそあれみな似たり寄ったり。
人はみんな自分の話をしたがるものとは決まっているけれど彼らはそれが度を越しているし、何よりたちの悪いのはそのことにまったく自覚がないと見えることだ。

いや、自覚なんてあるはずもないか。
だって、彼らの仕事は”最高の接客業”である水商売なのだから。

客に酒をもてなし彼らの話を聞いてやり、それに共感するなり説教するなり巧みな話術で飲ませるなりするのを生業としている人たちだ。
スキルとしてのコミュニケーション能力に磨きをかけてきた人たちだ。
彼らのコミュニケーションは”最高”であるはずなんだ。


私自身そう思っていたんだ。
世間の目は今も昔も冷ややかだけど、水商売の人たちは絶対にすごい人たちに違いない。
毎日毎日違う客が来て、当然決まった話題があるわけでもない場のトーク力で食っていくなんて、とても自分に真似できたものではない。


現実に彼らと間近で接してみて感じたのはここで書いているようなこと。
隙あらば自分語りをし始める、他人へのアドバイスめいた言葉も十中八九的外れ、大体、彼らは自分のこと以外そもそも眼中にないような印象を受ける。

他人は自分を映す鏡かもしれない。
もしかしたら私自身がそういう態度だったからかもしれない。
いやきっとそうなんだろう。この話題はそう考えることでしか前進の余地はないのだから。

「君と話をしている時間が好きだ」

そう言ったら彼は傷つくだろうか。それは間接的に「君自身には興味がない」と言っているようなものだろうか。

確かにそう言っている私の念頭にあるのは、彼自身の人柄や性質よりも、自分の時間をどう使うか、という事柄かもしれない。

彼は想像力があるから、そういうことはきっと伝わる。
だから、その言い方は避けたほうがいい。言うならこうだ。それ以外はだめだ。

「君が好きだ」

絶対に無理だ。


そもそも私は彼のことが好きなんだろうか。

冒頭の言葉に偽りはないつもりだ。
Kとは違って彼との会話は建設的に思えるし、なにより楽しい。

気を使いすぎることなく、また適度に配慮をしあう。

そういう関係は非常に心地よいものなんだと知った。

関係性に不満はないんだ。


彼は平凡で弱くて怠け者。
そして、健全。

彼の価値観はごく一般的で、とても健全。
そう感じる。
私にはそれがとても魅力的だ。

人となりに文句はないんだ。


私は彼のことが好きなんだろうか。