眠れぬ夜に

言葉が頭の中に生まれては消えて、また生まれては消えていく。

思考にならぬまま言葉は泡沫のように浮かび弾け、ただ脳の血流だけを早める。

どうしても眠れそうにないから、無駄な努力はやめてこうして真夜中にキーボードを叩く。

今気がついたが、電気をつけずにキーボードを打つのはタッチタイピングの練習にうってつけだ。


ブログへの初投稿になる。
いきなり人様に見せられるような大層な文章は書けないし、第一公開するとなった途端に筆が進まなくなるのは目に見えている。
だから、よく言う「備忘録」ってやつとして、徒然に綴っていく。

気が向いたら公開もしよう。


考えていたのは、今日のKとの会話のこと、明後日のデートのこと。

Kだけじゃなくて、あの街に根付いた人々の性質には、看過しがたい異質さがあるように感じる。こう言う風に括るのはそれこそ偏見だけど、Kをはじめ私の過去世話になってきた人々、それから少しの間逢瀬を交わしたひとりの男、彼らとコミュニケーションを取るたびに必ずと言っていいほど感じてきたのは、”共感能力” の欠如。

彼らは私の話を聞いているそぶりを見せながら、息継ぎの間を狙うように、関係があるようで関係のない”自分の話”をし始める。彼らにとってそれこそが共感なのかもしれない。けれど私の感覚ではそれは共感とは呼びがたい、むしろ自己アピールでしかない。

確かに私自身話が下手で、一生懸命言葉をひねり出しては語彙の貧弱さと頭の回転の鈍さに我ながら辟易するのが常だ。
それにこんなことを言えた立場じゃないくらい、そもそも私自身が相当共感能力に乏しい 人間であることは重々自覚しているつもりだ。

それでも、だ。

私は今日と言う日の目的を「Kを会話で楽しませもてなす」こととして、私なりに懸命に彼の話を聞こうとしていた。想定していたほど上手く聞き役に徹することはできなかったけれども、それでもその目的設定を忘れていたわけじゃない。彼の出した話題から話をそらさないように、共通したテーマを含んだ私の経験談を、拙いなりにも懸命に話した。

それを、つまらなそうに聞く、のみならず。
私の話が終わったと見るや否やあくびを一発かましてきたものだ。
そしてとどめはお決まり、(なんと言っていたか記憶にも留まらない)彼なりの”文学的”名台詞で話をまとめ上げるのだ。


彼は文学少年だったようだ。現在もそれなりに読書はしているようだし、音楽の好みも文学的歌詞であるかどうかが大きな要素であることは間違いない。彼は中森明菜をはじめ鬼束ちひろ中島みゆき、その他昭和歌謡曲に傾倒している。

だからだろう。彼は会話の中で幾度となく文学的表現と取れる”それっぽい”言葉を挟んでくる。しかも、それ単体で。
確かにそれらの言葉自体はは”それっぽ”くて使い方によっては非常に魅力的に思える言葉たちであると思う。
ただ、彼のようなタイミングでそれらを使われても、私には違和感しか感じないのだ。

おそらく辞書を引いてみれば彼の用法の間違いは明確に指摘することができるはずだと思う。しかしながら私には咄嗟に間違いを訂正できるような知識もなければ回転の速い頭もないので、基本的にそれらの言葉は無音声として処理するように努めている。
それでもその、社交パーティーの輪の中に喪服の男が混じり込んだような、一度気になりはじめたら意識の外に追い出しがたい、すさまじい違和感は払拭しきれない。

こんなことを言っているけど別に私自身が文学を毛嫌いしているなんてことは全くない。むしろそういう文化的な環境に身を置いて育ってきた青年には好感という言葉ではちょっと物足りないくらいの感情を抱いている。憧れと言ってもいいかもしれない。

全然自慢ではないが、私の通っていた高校は県内では有数の進学校で、私の同窓生たちはみな揃って優秀そのものだった。そして彼らの多くが文学に幼少の頃から親しんでいたということを3年間関わる中で知った。折に触れて彼らが漱石や芥川をユーモアに使うのが、端で聞いている私までエリート気分にさせてくれるようで気持ちが良かった。彼らのことを知っていて、なおかつ自分自身はそのような立派な文化的背景を持っていないからこそ、Kのような文学少年には期待こそすれ嫌悪感など持ちようがないのだ。


Kだけではない。先にあげた人々性質の差こそあれみな似たり寄ったり。
人はみんな自分の話をしたがるものとは決まっているけれど彼らはそれが度を越しているし、何よりたちの悪いのはそのことにまったく自覚がないと見えることだ。

いや、自覚なんてあるはずもないか。
だって、彼らの仕事は”最高の接客業”である水商売なのだから。

客に酒をもてなし彼らの話を聞いてやり、それに共感するなり説教するなり巧みな話術で飲ませるなりするのを生業としている人たちだ。
スキルとしてのコミュニケーション能力に磨きをかけてきた人たちだ。
彼らのコミュニケーションは”最高”であるはずなんだ。


私自身そう思っていたんだ。
世間の目は今も昔も冷ややかだけど、水商売の人たちは絶対にすごい人たちに違いない。
毎日毎日違う客が来て、当然決まった話題があるわけでもない場のトーク力で食っていくなんて、とても自分に真似できたものではない。


現実に彼らと間近で接してみて感じたのはここで書いているようなこと。
隙あらば自分語りをし始める、他人へのアドバイスめいた言葉も十中八九的外れ、大体、彼らは自分のこと以外そもそも眼中にないような印象を受ける。

他人は自分を映す鏡かもしれない。
もしかしたら私自身がそういう態度だったからかもしれない。
いやきっとそうなんだろう。この話題はそう考えることでしか前進の余地はないのだから。

「君と話をしている時間が好きだ」

そう言ったら彼は傷つくだろうか。それは間接的に「君自身には興味がない」と言っているようなものだろうか。

確かにそう言っている私の念頭にあるのは、彼自身の人柄や性質よりも、自分の時間をどう使うか、という事柄かもしれない。

彼は想像力があるから、そういうことはきっと伝わる。
だから、その言い方は避けたほうがいい。言うならこうだ。それ以外はだめだ。

「君が好きだ」

絶対に無理だ。


そもそも私は彼のことが好きなんだろうか。

冒頭の言葉に偽りはないつもりだ。
Kとは違って彼との会話は建設的に思えるし、なにより楽しい。

気を使いすぎることなく、また適度に配慮をしあう。

そういう関係は非常に心地よいものなんだと知った。

関係性に不満はないんだ。


彼は平凡で弱くて怠け者。
そして、健全。

彼の価値観はごく一般的で、とても健全。
そう感じる。
私にはそれがとても魅力的だ。

人となりに文句はないんだ。


私は彼のことが好きなんだろうか。